セール
セール
月刊バスケットボール 初代編集長 島本 和彦氏
月刊バスケットボール 初代編集長
島本 和彦氏 インタビュー

ジョーダンが世界の舞台に登場するには、まだ少し遠かった70年代。
日本のバスケ界に大きな影響を及ぼす雑誌が誕生した。
その名も「月刊バスケットボール」。日本で初の、本格的なバスケ専門誌。
その栄えある初代編集長に抜擢されたのが、当時まだ20代の若者だった、島本和彦氏。以来、日本のバスケ界を盛り上げるだけでなく、日本人記者としては初めて、遠いアメリカのNBA現場へ取材に出かけ、人脈を作り上げて、日米のバスケ界をつないできたパイオニアなのである。
もちろん、華やかな武勇伝も数限りなく、そして若かりし頃の失敗談、冒険談も――そして現在も、TV解説やバスケミュージアムの創設、キッズのためのバスケ・クリニック主催など、日本のバスケ界を牽引してくれている大御所のひとりだ。
そんな島本氏だが、実は編集長就任まで、バスケは大嫌いなスポーツだった!?
日米バスケを見守り続けて来た氏のストーリーは、バスケを愛する人々にとって、宝箱のように貴重なものばかり―――。

取材日:2014年11月7日

島本和彦(しまもと かずひこ)

1946年、世田谷生まれ。
玉川大学卒、日本文化出版株式会社入社後、73年、「月刊バスケットボール」の創刊をまかされ、初代編集長に就任。
以来、日本と米国、ひいては世界のバスケットボール界を見守り続けて来た。
日本人記者としてNBA取材を敢行したパイオニアでもあり、編集長勇退後はTV解説、クリニック主催、バスケットボール・ミュージアム創設、バスケファンクラブ「HOOP HYSTERIA」主催など、八面六臂の活躍を続けている。

―島本さんは、まったくバスケやってなかったんですか!?
うん、僕は中学から高校まで、ずっとバレーボールをやってたの。
―日本文化に入社するきっかけは、バレーボールだったんですね。
そう。僕は要するに、「月刊バレーボール」の読者で、中学のときからずっと買ってた。でも、バレーも、72年のミュンヘン五輪まではせいぜい行って7000部くらいだったのが、いっきに売れてね。オリンピック特集号だけで20万部くらい発行したかな。売れたから、じゃあ次の雑誌ってことで上層部が話し合って。僕はまだそのころ25,6歳だった。そしたら、「バレーボールをやってる横では必ずバスケをやってるよね」っていう社長の一声で、バスケ雑誌を創刊することに決まって。
社長は早稲田出身で、ご自身もバレー部だったけど、「バスケの奴らもよく知ってる、いろいろ頼めるから、バスケがいいんじゃないか」と。
―それで、島本さんがバレーボールからバスケに異動になった。
僕は、72年の5月に入社。その年は10月にオリンピックがあった。ずっと大学の出版部で、通算5年くらいアルバイトをしていたんだよね、で、これはいかん、違うところへ行ってみたほうがいい、ついてはやっぱりスポーツがいいということで、すぐさま日本文化出版の名前が頭に浮かんだ。
僕は、卒論もバレーボールで書いていたので、それを渡したら「頼もしい、すぐ来てくれ」と言ってもらえて。「仕事はたくさんあるから」と。それはそうだよね、オリンピックの年だから。そのころもう、キャリア5~6年のベテラン女性編集者もいたんだよ。
―当時、女性編集者が既にいらっしゃったんですか。
いましたよ。女性のほうが多かったくらい。日本文化というのは、昔からそういう地盤だった。しかしでも、バスケ雑誌を創刊するにあたって、女性を新たなスポーツにというのはなかなか難しい、男のほうがトライさせやすいんだろうと社長が判断して…。
社長、なかなか先見の明があるんです。自分がやっていたスポーツをそのままやると、絶対になめて適当なことをやる、勉強しないと。学校の勉強の仕方ではない、人との付き合い方とかもあるし…。で「島本、お前、やれ」と(笑)。
―そこからずっと、バスケ。
うん。73年からね。
―そこから今までに、ほんとにいろいろなことがあったと思いますが、島本さんが発見していった「バスケットボールの面白さ」とは。
いや、実はさ、バスケ雑誌をやれと言われ、「まずはちょっと考えさせてくれ」と答えたんだよね(笑)。
なんでかって言うと、僕は一番嫌いなスポーツがバスケだったから(笑)。中学の時は、僕はバレーボールで都大会まで出るくらいの学校でね、ベスト8まで行った…
―バスケは嫌いだった(笑)。バレーのポジションはどこだったんですか?
あの頃は9人制だったからね。僕はだから、ハーフセンターとかバックセンターとか…小さいから後ろのほう。バレーの面白さを分かっていた。でも、高校になったら、バレー部がなかったの。僕は、玉川学園ってとこを出てて、非常に軟弱な(笑)、女の子が素敵な学校で(笑)。
自由な雰囲気で。で、バレー部がないから作ったんだけど、そのころからね、バスケ部ってのはやはり花形だったわけ。で、凄く人数が多くて、で、そこに学習院から素行が悪くて転校してきたのがいたんだけど、勉強はしないわ、たばこは吸うわのワルでね(笑)。でも、バスケをやると凄くうまいの。良くアメリカにいる、めちゃくちゃセンス良くて、小さいけど相手をおちょくりながらプレイできちゃう、あんなタイプ。1試合、そのガードひとりで、30点、40点って取る。でもチームは負ける。それを見てて、「このスポーツは何なんだ?」と…。一人で、何でもできちゃう。なんてエゴイスティックなスポーツなんだろうって思って。それに比べるとバレーボールはさ、スパイク1つ打つのにも、トスを上げてもらわなきゃできない。1人じゃ絶対、できないんですね。社会的なスポーツであって、バスケの数倍いい!と思ったわけです(笑)。
ところが、それで、大人になって、バスケ編集部へ行けって言われて…。会社から家へ帰る途中、ずっと考えていた。だけど、1973年、雑誌の創刊なんて、まずあまりない。編集者としては、雑誌の創刊に立ち会えるなんてことはそんなにない、凄い光栄なことだと…。英語では「founding editor(創刊編集者)」って言葉があるくらいでね。それになれるってのに、自分が好きだ嫌いだだけで選んでいいのかと。で、「いいや、編集すること、スポーツの心は一緒だ、分からなくてもいいから行こう」と決めて。「ま、いっか」と。だから、ほんとに少しずつ、分からないことを勉強して行ってね。僕の下に、若い子が2人くらいついたんだけど、その子たちはバスケをやってたから、選手の名前や、どこの学校が強い弱いが分かったのね。だから、その子たちに、文章の中心の目立つとこはやらせて、デザイナーとの打合せとかは僕がやるけど、彼らができるようになったら渡しちゃう(笑)。僕は人に渡しちゃうのが大好き(笑)、自分はなるべくやりたくない。元来僕は何もやらずに眺めていたいんだ(笑)。
―NBAを取り上げ始めたきっかけは。
やらなきゃいけない、ってのが、NBAだったんですね。うちの社長っていうのが、業界では有名な人で。「やっぱり雑誌というのは世界の一流を載せなければいかん」と。アメリカのバスケは金メダルを取る世界一、その精鋭が集まるNBAを載せないわけにはいかんだろうと。それで取り扱ったんだね。
選手の名前は分からない、遠いアメリカ…。そんなのやっぱり面白くないし、若い彼らには「ちょっと忙しいですから」とか言って、全部断られちゃう(笑)。で、しょうがねえ、僕がやらなきゃ、ってんで、それを3年、5年、ってやってたら、それは詳しくなるよね。原稿書いて、入稿して上がって来た写植を文字稿で見て、青焼きで見て、って3回見れば、馬鹿でも覚える。それをずっとやってたら。
―一番最初に現場取材に行ったのはいつ?
78年。会社に申請したら、「島本、ちょっと来て見てみろ。お前、この部数でアメリカまで行けると思うか?」と(笑)。
自分でも「まあ無理だろな」とは思ったけど、まあ言ってみないと。会社ってのはそういうところだから。で、「自費で行ってきます、写真も撮ってくる。だから、休むことを許可してほしい」って言った。そしたら「それなら仕方ない、いいだろう」ってことになって、で、1週間くらい行ったの。
―いろいろ周ったの?
ツアーでね。あのころは、ロサンゼルス、カリーム・アブドゥル・ジャバーね、彼が一番人気。マジックはまだ出てきてないから。で、その前年はポートランドが優勝してたんだけど、そのファイナルで対戦したドクターJのフィリーが来ると。このゲームも見とかなきゃいかん、って。で、レイカーズは1試合、デンバーと対戦。デンバーには、学生時に来日もしてるデビッド・トンプソン。「お、いるいる、やってるやってる」って。だから、ロスからポートランド、そしてまたロスへ戻ってっていう日程。
―外国人記者は他にもいたんですか?
いないよ。そのころは、誰一人いやしない。だから凄くびっくりされて、「どこから来たんだ?」って。ちゃんと手紙を出してプレス申請をするんだけど、返事なんか返って来やしない(笑)。それもそうだ、だって、そんな遠い外国から、ほんとに来るか分からないじゃない?で、申請した手紙のコピーを持って、現場に行くわけです。だけど、プレスの入り口もどこだか分からない。
―そのとき英語はできたんですか?
できない(笑)。できないけど、73年に最初に取材に行ったのが、モスクワのユニバーシアード。あのとき、デレク・トンプソンが活躍して、ダントツでアメリカが金メダル。日本も出てたけど、10位くらいだったかな?
まあとにかく、ロスのアリーナ窓口で、最初は向こうも「英語もしゃべれないのに、何言ってんだ?」って感じで…。でもそれでも一生懸命「プレス、プレス」なんて苦戦してたら、「ちょっと待ってろ。あいつがそうだから」なんて、担当を連れてきてくれた。それで、とにかく、どういう媒体だか分からないといけないと思って、雑誌は持っていってたから見せると「おー、凄いじゃないか、こんなのが日本で出てるのか」って。そしたら、プレスのバックステージ・パスをぺたっと貼ってくれたんだけど、どうやって動いたらいいのか、まるきり分からない(笑)。シートもどこだか分からないし、まず写真を撮りたいんだけど、どこで撮ったらいいのか。でも、誰もいないんだとにかく(笑)。あのころ。ベースラインに、カメラマン誰もいない(笑)。
で、まず感動したのは、「うわー、カリーム(ジャバー)が歩いてる」って(笑)。当時、映像もないからさ、スチールしか見たことないから。本物だ!っていう感動。
―そのとき、ジャバーと話したんですか?
話すなんて、とんでもありませんよ(笑)。インタビューなんてできない。でも、とにかく体感してこなきゃ、若い者たちのためにも、まずは僕が、というような心境。
―で、そのあと、ロスからポートランド。
ポートランドでは、大学の1年後輩が、仕事で行っていて。空港まで迎えに来てもらって、現場にもついてきてもらった。ポートランドは前年に優勝しているから、チケットを買いたくても買えない状況だったんだけれど、そのときに、ストゥーインマンという元ポートランドの副社長がいたの。その人は、日本のナショナルチームにも指導していた人で、我々が日本から来たと言ったら「この名刺を持っていけ、何とかなるから」と言って彼の名刺をくれてね。で、その後輩に、その名詞でもって交渉してもらったら、彼が「凄いよ島本さん、どんどん入れる、どんどん入れる、こんなの嘘だ」ってね笑)。「駐車場まで用意されてるよ!」ってさ(笑)。VIP待遇。
プレス・パスをもらって、ロッカールームを覗いていたらね、黒人のガード選手が「何やってるんだ?」って。「いやいやいや、、、」ってアワアワしていたら、「早く入れ」。「あ、入っていいんだ?」って思って、それで、入って写真を撮っていても、何も言われないの。「何だこりゃ、凄いな」って思った。資料もたくさんあって…。当時、日本では、資料なんて雑誌しかなかった。書店では洋書なんて売ってないし、ましてやバスケなんて売れると思ってないからね。それなのに、アメリカには宝庫みたいにたくさんある。なにしろ、あのとき持って帰ったのが段ボール箱5個。書籍からメディアガイドから、もらったペーパーとか…。帰ってから、みんなが「へえーーこういう仕組になっているんだ」って驚いてね。
―アメリカから持って帰った資料が、月バスの制作にも役立ったと。
そりゃーもちろん。すぐ役に立った。広告のカット1つ取っても、なんか洒落てる。当時の日本には絶対ないから。そういうのを、ちょっとはじっこに使ってみたりした。当時、月バスの読者は地方の子たちが多かったんだけど、大学に入ったりして上京するでしょ、そして「編集部に遊びに行っていいですか?」などと言ってきてくれる子も随分いてね。それでやって来て、「質問があるんですけどいいですか?何年何月号の、何ページ目の何行目の、この企画の何段目のところに、こういうことが書いてあったんだけど本当ですか」って(笑)…。で、僕なんかは「バカ、知るか!(笑)」。…。みんな、それくらい、表紙の装丁文字から裏の広告まで、何から何までもらさず読んでた。どこに何があるか、全部分かっていると。
―当時はインターネットもないわけだし、それだけが情報ソースですよね。
そうそう。それでレイカーズ・ファンになったのが井上雄彦(スラムダンクなどで知られる漫画家の)ですよ。
―まあ、井上さんは随分あとですよね。
そう、でも、彼も、「僕もそんな学生でした」と言っていたね。
―NBA取材の原点をお聞きしましたが…さて、これまでの、ほんとに数々ある中で、1つだけ選ぶとしたら―――のベスト・エピソードを教えてもらえますか。
ゲーム、選手の話題なら、とにかくたくさん、ある。ジャバーも、マジックも、もちろんMJも…。でも、それよりね、凄く、日本から来たというだけで、いろんな応援をしてくれたレイカーズのオーナー。それが一番、僕の人生を変えた出来事。
―ジェリー・バスさん。
うん…。

To Be Continued!!(続く)

ページTOPへ