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トップ指導者&選手特集

近藤 義行氏 インタビュー

この春に、船橋市立船橋高校を離れ新たなスタートを切られた近藤義行氏。トップ指導者&選手特集では、第57回から第60回にかけて近藤氏の超ロングインタビューをお届けします。
27年間もの間、高校バスケットボール界をけん引し続けてきた名将に、今だからこそ話せるエピソードや今後の夢、目標などを語っていただきました。
初回となる57回では、50歳を迎えるタイミングで監督人生に区切りをつける決断をされた背景や、近藤氏が何故、指導者を志したかなどをお話しいただきました。

取材日2018年4月10日

―市立柏高校、船橋北高校、市立船橋高校での27年間のご指導、本当にお疲れ様でした。市立船橋高校から異動されて、今はどのようなお気持ちでしょうか?
ありがとうございます。私は教職についてから、まず市立柏高校に赴任させていただきました。第一に千葉県の公立高校の教員として頑張ること、プラス、バスケットボール部の監督という二役の立場で今まで一生懸命務めてきました。特に私自身も公立の環境で育てられましたので(近藤先生も市立船橋高校出身)「公立高校として全国大会に出たい!」と、強い希望を持った生徒たちのために何か出来ればという気持ちでずっと頑張ってきました。
結果的には27年間という監督人生になりましたが、そこに対する未練は一切ありません。残してしまう選手たちのことを考え、あと2年の希望を出しましたが、ここでの転勤を命ぜられました。それをしっかりと受け止めた私は、もう少しチーム作りや選手育成をやりたいという気持ちよりも今の私だからこそ出来ることがあると思い、このタイミングで監督人生に区切りをつけました。
―そうだったんですね。近藤先生だからこそ出来ることというのはどういったことなのでしょうか?
27年間の指導生活の中で根本は変わらず「生徒のために」という気持ちで指導していましたが、私自身が年齢と経験を重ねていくことで次第に、私を支えてくれていた「若い先生方のために何か出来ることがあるのではないか」という気持ちが強くなっていったんです。高校の部活動では全国大会3回、関東大会2回、それらの県予選など小さな大会も含めると1年間で沢山の大会に参加することになります。この都度に全部書類がついてきて事務作業に追われたり、バスケットボール部という組織が拡大していった時に、自分の力だけでは到底運営しきれない部分が出てきます。そんな時に、若い先生たちが私の仕事をサポートしてくれるようになりました。私はそんな若い先生方のために自分が退職するまでの間に何か出来ないかと考えるようになったんです。市立柏を出てからなので、13年前くらいからそういう気持ちが段々自分の中に芽生えてきて、生徒だけではなくて、今度は若い先生方のために頑張ろうと思ったんです。
また、私自身も市立柏高校時代に指導者の恩師である金子英二先生という素晴らしい先生がサポートしてくれていたおかげで思い切って指導が出来たわけです。今の若い先生たちにとって、この時代に思い切って指導することは中々難しいと思います。世間の目や保護者との関係もあります。ですから後ろから支えてあげる人がいることによって、若い先生が思い切って指導することが出来る、そんな環境を作ってあげられる人がいたら、千葉県のバスケットボール界はこの先もずっと盛り上がっていくのではないかと考えています。もっと言えば、27年間指導をしてきた私の経験を活かして、千葉県だけではなく、関東や全国のユース育成コーチという立場でユース年代の選手育成について考えることも必要になってくるのではと思っています。
それと、このタイミングで監督人生に区切りをつけたことには私の年齢も関係しています。私は今年で50歳になりましたけれど、退職までの期間で私がやろうとしていることは、今のタイミングで動き出さなければ手遅れになると思ったからです。やはり諸々のルールが変わっていくためには10年くらいは掛かると思っていますので、そういう意味で今のタイミングが最良かなと思い、しっかりと前へ進もうと考えるようになりました。
―では今後は現場ではなく、別の角度からバスケットボール界の育成に携わられていくということなのでしょうか?
出来れば、そのような形で携わっていきたいです。ただし、大きい変化を訴えていっても、私の世代で変わることは難しいと思います。だからこそ、私より次の世代のために訴えかけていけば、少しずつでも変化が起きていくのではないかと思っています。
今世の中では部活動のあり方、部活動顧問のあり方が教育界だけではなくて、日本全体の問題になっていると思います。また、教育機関では部活動だけでなく教員の長時間労働や管理職のなり手不足など様々な問題を抱えています。
例えば管理職についての一例として、一部の私立高校では管理職の先生が部活動顧問になれる仕組みがあります。しかし公立高校では慣例というのでしょうか、管理職イコール一つの部活動に携わってはいけない、という仕組みが存在しています。現場の先生の気持ちとしては、今まで一生懸命頑張ってきた部活動指導を辞めなくてはいけないとなると、気持ち的には淋しいですよね。私立高校だからこそ出来る仕組みということもあるとは思いますが、公立高校としてもそういったところがクリア出来れば、管理職のなり手が少ない問題に対しても少しは変わっていくのではないかなと感じています。
それと私は市立船橋高校で学年主任を6年間経験してきました。市船は大きい学校ですので一学年に10クラス400人くらい生徒がいまして、私が受け持っていた学年だけでも職員が25人おりました。
―先生だけでも相当な人数ですね…
そういう環境の中で、先生方と喜怒哀楽を語り合った時間や担任として学級経営に悩んでいる若い先生にアドバイスをしたりすることが、私にはとても魅力的な時間でした。若い先生方が管理職は大変ではないかと思い、あまり魅力を感じない人が多くなっていますけれど、私には逆に管理職という役割にこそ、若い先生方の力になれるという魅力を感じて、そういう一つのポストにいられれば良いなと自分に言い聞かせてきました。
そして将来的には学校の中で大変だと思われる部活動の顧問の先生がいるのであれば、例えば私が管理職として、それがバスケットボールではないかもしれませんが、その部活動の副顧問になって若い顧問の手助けをするというのが理想的なスタイルかなと思うわけです。
少し前のテレビで、学校の職員会議の場で「部活動の顧問を拒否します!」という発言について、ニュースが流れていましたけれど、そういう雰囲気にならないようにしたいですね。当然学校の部活動では顧問がついていないと子供たちのために色んなことが出来ませんので、大変そうな部活動に管理職が入っていくスタイルが理想です。
そうすれば日本国中で起きている顧問の長時間労働によるなり手不足問題や、様々な問題が少しでも解消出来るのではないかと考えています。
それに部活動指導が大変だと思う先生は、自分が経験したこともない種目の顧問を受け持っています。そこに親御さんからのプレッシャーがあり、上手くなりたいと思う子供の気持ちを叶えてあげられていないという負い目も加わり、段々心が傷ついていってしまうんです。やはり教員になろうと思う人たちなので真面目な人が多いんですよ。出来ないながらも、なんとかしてあげたいと思ってしまうから、休みも取らずに一生懸命やるわけです。そういった部分に対しても管理職として適材適所で人的配置を行なうことが出来れば、先生たちの負担も減っていくのかなと考えています。
そういったところに一石を投じられればと思っています。
―そうだったんですね。ちなみに新しい職場では、どのようなお仕事をされているんでしょうか?
今は、千葉県教育委員会生涯学習センター「さわやかちば県民プラザ」の職員として、目標を持ちながら働いています。管理広報課に所属しているんですけれど、簡単に言うと広報活動や施設の予約や管理など幅広く仕事をしております。様々 なことを企画できるので、施設内でフリーマーケットを企画してみたり、外に広いスペースがありますので、ここで3×3バスケットをやってみたらどうかなと考えたりしているんです。
―それは素晴らしいアイディアですね。東京オリンピックでも新しく競技種目になった3×3が行なわれたら沢山の人が集まりそうです!
きっと喜んでやりますよね。そういうことが出来れば等色々と考えたりしています。
―ありがとうございます。話は変わりますが近藤先生も高校生の頃、市立船橋高校でバスケットをされていたと伺っていますが、いつ頃から指導者になることを意識していたのでしょうか?
指導者になりたいと意識したのは10歳の時です。10歳くらいまでは小学校のクラブ活動でソフトボールをやったり、体操をやったり、学校外でも地域のスポーツクラブでラグビー、サッカーなどの色んなスポーツをやっていました。その後、5年生になる時に市原市立白幡小学校が新設されて通い始めました。その小学校にはバスケットボールを専門的に指導してくれる先生がいらっしゃいました。大浦先生という方ですが、その先生の勧めもありバスケットボールを始めて、将来的にはバスケットボールを教える指導者になりたいと考えるようになるわけです。
体育の教員になりたかったので、高校の選択は市船の体育科を選んで進学しました。私としては幼少の頃に芽生えた夢を実現することが出来たわけです。実は昨年のウインターカップの直前に選手たちを連れて、母校である白幡小学校へミニバスの指導に行ってきたんですよ。
そこで5、6年生の子供たちに“夢”について語ってきたんです。「僕は君たちくらいの年齢の時に教員になりたいと夢を抱いたんだ。そして夢を実現して、今こうやって自分のチームを率いて全国大会に出るんだよ。君たちも途中で夢が変わったとしても関係ない。常に夢を持ち続けていることで、輝いて生きていくことが出来るんだ」というような話をしてきました。
―それは素晴らしい授業ですね。実際に夢を叶えられてきた近藤先生だからこそのお話だと思います。近藤先生が入学された当時の市船バスケット部はどのような雰囲気だったのでしょうか?
私は市船が体育科を設置するようになって2期生の生徒でした。そもそも市船に体育科が設置されたのは船橋市がスポーツ健康都市宣言をしたことが背景にあります。「市船を全国区にしよう!」という流れから、市立船橋高校に体育科が設置されたんです。私の一学年上の一期生は1985年の石川県で開催された七尾インターハイで、初出場ながら決勝戦まで勝ち進み、有名な能代工業と対戦しました。当時の能代工業は現在、安城学園でご指導されている金子寛治先生がキャプテンとしてチームを率いていて、それはもう強かったです。
結果的には能代工業に4点差で負けてしまいましたが、市船バスケット部の歴史は全国準優勝から始まったんです。また、市船の運動部は多くが全国区でありますが、初めて全国のトップレベルに達したのはバスケットボール部が最初だったんです。この全国準優勝の後に駅伝部が優勝したり、サッカー部が優勝したり、バレーボール部が優勝して、どんどん全国優勝の成績を出していきました。
だから当時のバスケットボール部の練習もハードだったことを覚えています。僕は推薦組ではありませんでしたので、最初は練習にもついていけなかったです。そもそもこんな練習方法があるなんて知らなかった。下級生の内はとにかく必死で、練習についていくことがやっとでしたね。
―近藤先生にもそんな時期があったんですね。それにしても初出場で決勝戦まで勝ち進むことは凄いですね。市船の運動部強化の成果がいきなり出ていますね。
あの試合は本当に凄かったです。何よりも先輩たちと一緒に、全国大会の決勝という舞台、あの空気を味あわせていただいたことが僕の人生において強く印象に残っています。そして試合に負けた悔しさもずっと持ち続けていたので、この舞台に連れてきてくれた先輩方のためにも、自分が指導者になって絶対にリベンジをしてやろうと思っていました。先ほども言いましたが、市船バスケット部は市立船橋高校全体の運動部の中で最初に全国トップレベルに到達したんですけれど、全国優勝の経験が一度もありません。最高成績が2位までなんです。ですから、私は市船に来てから「市船から全国へ、そして世界へ」というスローガンを持ちながら全国優勝を目指して頑張ってきました。
生徒たちにも「俺たちはウインターカップ最終日、最終戦を目指すんだ!そこを目指してとにかく努力をしよう!」と言い続けて、目標に向かって協力しながら、お互いに競争して日々の練習に取り組んでいました。
結局私が市船で指導していた10年間の中では3位が最高成績ですので、目指していた最終日の最終戦まで、たどり着けませんでした。しかしこれから市船で指導をする監督には、やはり全国優勝を目指して、七尾インターハイの決勝で負けたリベンジを果たして欲しいですね。市船は公立校なので、一定の期間で必ず指導者が変わります。だけどこの気持ちだけは指導者が何度変わろうとも、ずっと受け継いでいくことで、いつかは全国優勝を果たしてほしいと思っています。
―指導者が変わっても、全国優勝を目指す想いを受け継いでいくことが大切なんですね。貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございます。
第58回に続く

船橋市立船橋高等学校
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