東海大学付属相模高等学校 バスケットボール部
原田 政和監督 インタビュー<前編>

毎年ハイレベルな戦いが行なわれる神奈川県予選を勝ち上がり、9年ぶりにウインターカップへの出場権を獲得した東海大学付属相模高校男子バスケットボール部。トップ指導者&選手特集87回目と88回目では、チームを率いる原田政和監督のロングインタビューをお届けします。前編となる87回目では、原田監督のバスケットボールとの出会いや、東海大相模高校でバスケットボール部を指導することになったいきさつ、高校生を指導する上で気を付けていることなどについて語っていただきました。

取材日2019年10月10日

―原田監督がバスケットを始められたきっかけを教えてください。
もともと子供の頃は、バスケットではなく野球をやっていたんです。私は生まれは秋田県出身なのですが、小学校四年生の夏休み前に父親の仕事の関係で仙台へ引っ越しをしました。その後も野球を続けようと考えていたのですが、土日しか活動のないクラブしかなくて、エネルギーが有り余っていた私は、どんどん太ってしまい(笑)とにかく体を動かしたくて仕方がなかった時に、クラスメイトがバスケットクラブに誘ってくれて、それがきっかけとなりバスケットを始めました。実はこのクラスメイトとは今も深い親交があり、大事な公式戦などは必ず応援に来てくれる「私をバスケットボールに導いてくれた恩人」です。
―では、最初は乗り気ではなかったのですか?
はい。とにかく運動をしたかったので「まぁ、ちょっとやってみようかなぁ」と思って行ったんです。そしたらなんだか面白くて(笑)そこからバスケットにのめり込んでいった感じですね。
―原田監督はその後、佐藤久夫監督(現・明成高校バスケットボール部監督)が指揮を執られる仙台高校へ進学されるわけですが、どのような経緯で仙台高校への進学を決められたのでしょうか?
私が通っていた中学校は弱かったんですけれど、中学二年生の終わり頃にジュニアオールスターの選考会がありまして、幸運にも私は県選抜チームに選んでいただくことが出来ました。私にとってあれが転機だったと思うのですが、その選抜メンバーに現在、指導者として活動している佐藤濯や、宍戸治一、仙台89ERSのGMである志村雄彦がいました。本大会ではあれよあれよと勝ち進んでいき、よく分からない内に決勝戦まで勝ち進んでいました。決勝戦は沖縄選抜が相手だったのですが、1点差で負けて、いつの間にか私達は全国大会で準優勝をしていました。その後進路を考えている時に、選抜チームで一緒に戦ったメンバー同士で“仙台高校にいこう”という流れができ、私自身もバスケットをやるなら一番強い全国区であるチームの仙台高校で頑張るぞ!という思いがありましたので、入学を決めました。
―当時から佐藤監督は熱い指導を展開されていたのでしょうか?
そうですね、私が高校生ですので今から約20年前くらいでしょうか。久夫先生は当時40代後半から50歳くらいでした。今の久夫先生の明成高校での指導については私の口からは何も言えませんが、当時はファンダメンタルの徹底や、何事も高校生らしく一生懸命ひたむきに頑張ることの重要性や、価値について日々指導していただいたと記憶しています。学校生活での甘さがコート上の甘さに繋がるということも強調されていたと思います。
―原田監督はその頃から将来指導者になることを意識されていたのでしょうか?
私は高校三年生の時にお声を掛けていただいたことがきっかけで東海大学へ進学をするのですが、その時は将来指導者になろうということは、全く意識をしていませんでした。現在、東海大学付属諏訪高校(長野県)で指導している入野貴幸監督や、つくば秀英高校(茨城県)の稲葉弘法監督が大学の同期になるのですが、彼らは入学する前から将来指導者になることを決めていて、当時からそのための勉強をかなりしていましたね。しかし私は彼らと違い、競技スポーツのアスリートコースを選択していたので、そういった勉強はあまりしていなかったですし、考えてもいなかったです。出来ることなら実業団チームに就職をして、仕事をしながらバスケットを続けていきたいなと思っていました。
―そうだったのですね。ではいつ頃から指導者になることを意識されたのですか?
それは、私の2つ下の世代に石崎巧(現・琉球ゴールデンキングス)竹内譲次(現・アルバルク東京)内海慎吾(現・京都ハンナリーズ)阿部佑宇、井上聡人といった所謂、ゴールデンエイジ世代と言われる選手達が東海大学に入学してきた時に意識が少し変わったかなと思います。決してネガティブになったわけではないのですが、自分の中で、選手としてこの先もバスケットを続けるという意識から“バスケットに何らかの形で関わっていく”という方向に考え方がシフトしていったことが、指導者を意識し始めたきっかけです。その後、大学四年生の時に現在、東海大学男子バスケットボール部の総括をされている木村さんのご紹介により、東海大学の学園に職員として就職し、指導者としてのキャリアをスタートすることになりました。
―初年度はどちらで指導をされていたのですか?
社会人一年目は札幌へ行くことになるんですけれど…ちょっと複雑ですみません。所属はずっと東海大学なのですが、まず、北海道にある東海大学付属札幌高等学校中等部(前・東海大学付属第四高等学校中等部)に赴任し、中等部のコーチをさせていただきました。その後は東海大学札幌校舎男子チーム、2011年からは東海大学(湘南キャンパス)で2年間、陸川章監督のアシスタントコーチをさせていただきました。2013年からは東海大相模高校へ保健体育科の教員として赴任し、男子バスケットボール部のアシスタントコーチを務め、2015年からヘッドコーチを任されることとなり、現在に至ります。
―東海大相模と言えば、野球部や柔道部なども全国的に有名ですね。原田監督は他競技の監督方から影響を受けたりされますか?
他競技からの影響はかなり受けています。特に柔道部の水落監督は東海大学の体育学部の同級生なので、お互いに切磋琢磨し合って色々と意見交換をしますし、直接お話を伺わなくとも、目で見て様々なものを盗むようにアンテナを張っています。また私だけではなく、子供達も日常生活の中で、あのクラブが勝った、負けたとか、誰々が凄い選手だとか言いながら、良い刺激を受けていると思います。
―原田監督が高校生を指導する上で気を付けていることを教えてください。
“目的を意識させる”ということです。なんでもかんでも、コーチが目的を明確にさせる必要はないと思っています。何のためにやるのだろう。試合のどの局面に使えるのだろうと試行錯誤させながら練習に取り組んでもらいたいという意図があります。ですが、精度よりも強度を求める練習などは「とにかくこれを一生懸命やりなさい」と指示をする時もあります。やはり目的についてしっかりと疑問を持ち、試行錯誤しながら挑戦をしている選手は、ある程度自分の中で考えているものと私が求めているものが合致してきます。それを繰り返して少しずつ明確になってくると、その選手は最後まで集中力を持って頑張りきることが出来ると日々の練習を見ていて感じます。しかし、これらの「無形の力」について部員全員に強調、浸透させることは中々難しいので、キャプテン、副キャプテンと私がコミュニケーションを取るなど、各学年のリーダー的存在の選手にアプローチをして話し合いをするように意識しています。
―練習の質を高めるためにコミュニケーションなどに気をつかわれているわけですね。それではここから先日行なわれたウインターカップ神奈川県予選の話を聞いていきたいと思います。まずは優勝おめでとうございました。
ありがとうございます。
―ウインターカップ出場を決めた瞬間はどのようなお気持ちでしたか?
「やった!」という気持ちでした。久しぶりに人目も気にせずに嬉し泣きをすることができました。東海大学のアシスタントコーチしていた時、狩野祐介(現・滋賀レイクスターズ)がキャプテンの代に、インカレで優勝することが出来たのですが、その時以来に嬉し泣きをしました。人前で泣いたのは8年振りだと思います(笑)
―色々なものが込み上げてきたのですね。
あの時はとても不思議な感じでしたね。試合の後半は“勝たせてあげたい”というよりかは、選手達の「勝ちたい」という強い気持ちがチーム内に溢れていました。タイムアウト中も私が一方的に指示を出すのではなくて、選手達が「ああしよう」「こうやって攻めよう」などと、率先して意見を出し合っていましたので、それを見て私は「じゃあそれで行くぞ!」と言うだけでした。本当に良い意味で彼らは試合の中で自らの意志を強く持って私を超えていったという感覚でした。あの試合を振り返って思い出すと、私がコントロールして勝ったのではなくて、選手達が意見を出し合って、自律的に戦い切れたことが、最後、勝利に結びついたんじゃないかなと思っています。
―でも選手が自主的に意見を言い合えるのは原田監督の日ごろのご指導あってこそですよね。
とんでもないです…正直に言うと、あの試合、何が結果に直結したかと問われると、自分の中では疑問に残るところがあります。指導者として試合を振り返って、あの時に出した私の指示が、勝利を決める一手だったというような明確な何かは思い当たりませんので、やはりまだ自分が指導者として未熟だということだなと思います。おそらく名将と言われる指導者の方々は、何度も接戦を制していく中で、“試合の中で起こることに対してどのように対処をしたか、その対処方法が正しかったから必然的に結果が出た”という風に、勝利の要因が明確にあると思います。その辺りがぼんやりしている私は、まだまだだなぁと。勝てはしましたが反省しきりです。私自身は選手に助けられてばかりだなと感じましたし、嬉しい気持ちの反面、まだまだ経験と勉強が足りないなと思っています。
―そのようなことを思われていたのですね。話は夏に遡りますが、インターハイ予選は悔しい敗退となったかと思います。夏から冬に掛けては、どのようにチームを作られたのでしょうか?
夏の予選は、私も生徒達も少し硬くなりすぎていたかなというところがありました。選手起用に関してもあまりチャレンジすることができず、力のある選手6人を中心に全てのゲームを組み立ててしまったことが私の反省点でもあります。結局その6人に負担が掛かってしまい、我々の持ち味である、“強度の高いディフェンスとリバウンド”が最後まで保てなかった。どの試合も同じように第4ピリオドで失速して負けてしまったんです。やはり試合中に信用出来る選手を多くしていなかったことが悔やまれるところだったので、冬に向けてからは二年生で力のある子と6人以外の三年生を鍛え上げることで、多くの選手を回しながら戦えるように鍛えていきました。最終的に夏6人だったところから、ウインターカップ予選では多い時では10人でプレータイムをシェア出来るところまでいきましたので、そこはチーム作りとしては成功した部分だなと思います。
―6人から10人ですか!それは大きな変化ですね。
そこに関しては勝因の一つだったんじゃないかなとは思います。我々はアグレッシブにディフェンスをして、コンタクトをして、オールコートでプレッシャーを掛けるスタイルなので、10人で戦えるようになったことで、多少のムラはありつつも、ある程度の強度は40分間保てるようになったかなと思います。特に今大会は三年生のバックアップの子達が本当によく頑張ってくれました。そのお陰で、もともとスタートで出ていた選手の負担が心身ともに軽くなり、強度を保ちつつも、勝負所で力を発揮するためのスタミナが残っていたのではないかと分析しています。
後編に続く

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